John Sykes(ジョン・サイクス)のWikipedia(US)を翻訳してみた。

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John Sykes(ジョン・サイクス)のWikipedia(US)を翻訳してみた。

ジョン・サイクスが好きだ。だが彼の文献はネット上に数えるほどしかない。そこで勉強のため手始めにUS Wikiを当サイトで翻訳してみることにした。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/John_Sykes

Wikipediaより

ジョン・サイクスは(1959年7月29日生まれ)ホワイトスネイク、シン・リジィ、そしてタイガース・オブ・パンタンのメンバーとして知られる英国のミュージシャン、シンガー・ソングライターである。そのほか、ハードロックグループのブルーマーダーのリーダーとして、またソロとしていくつかのアルバムをリリースした。

1980年代初頭にヘヴィメタルグループのタイガース・オブ・パンタンで活躍した後、サイクスは1983年のアルバム「サンダー・アンド・ライトニング」でアイルランドのハードロックグループのシン・リジィに参加。その後、サイクスはホワイトスネイクに加わり、アルバム「1987(サーペンス・アルバス)」をリリース、アルバムはマルチプラチナを獲得した。しかし、サイクスはアルバムのリリース前にグループから解放され、彼は自身のバンドBlue Murderを結成。3枚のアルバムをリリースした後、サイクスはソロ・キャリアを開始。1990年代にはシン・リジィの亡きフロントマン、フィル・ライノットへのオマージュとしてシン・リジィの再結成に参加。サイクスはソロ・キャリアのためにバンドを去る2009年まで、新生シン・リジィのフロントマンを勤めた。

2006年ギブソンは、1978年のギブソン・レスポール・カスタムをベースにしたシグネチャー・モデル「ジョン・サイクス・レスポール」を限定でリリースした。このギター(レスポール・カスタム:通称ブラック・ビューティー)は、彼のキャリアのほとんどで使用されたものでもある。

Career / キャリア

初期のキャリア

ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモア、ゲイリー・ムーア、マイケル・シェンカー、ウリ・ジョン・ロートらの影響を受けたサイクスは、1980年にストリートファイターというバンドに加入し、ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせた。しかし彼はすぐにグループを去り、タイガース・オブ・パンタンに加入。サイクスはスペルバウンドとクレイジーナイトという2枚のアルバムを録音し、1982年にアイルランドのハードロック・グループ、シン・リジィに参加。彼がタイガース・オブ・パンタン在籍時に制作したアルバム、ザ・ケイジは彼がシン・リジィ移籍後にリリースされた。また当時サイクスは、レコーディング契約を獲得できなかった元ユーライア・ヒープのボーカリスト、ジョン・スローマンのバンドであるバッドランズのメンバーでもあった。

シン・リジィ

1982年にシン・リジィのオーディションに合格したサイクスは、1983年のアルバム「サンダー・アンド・ライトニング」に参加し、トラック「コールド・スウェット」を共同執筆した。サイクスは後にバンドを音楽性を活性化させ、ヘヴィメタル寄りのサウンドに舵を切ったとされている。サイクスとグループのフロントマンであるPhil Lynottはバンドの継続を望んだが、Thunder andLightningのツアーはThinLizzyとして最後のツアーとなった。ツアー中、シン・リジィはライブアルバムLifeを収録。そしてサイクスはヨーロッパのソロツアーでライノットに同行。シン・リジィは1983年8月のレディング・フェスティバルで最後の英国コンサートを行い、9月4日のニュルンベルクのモンスターズ・オブ・ロックフェスティバルでのショーの後に解散した。

フィル・ライノットは1986年1月4日に36歳の若さで他界。1994年、サイクスはシン・リジィの元メンバーであるブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ダレン・ウォートンとともにシン・リジィを再結成。フィル・ライノットの人生と彼の残した作品をトリビュートする形でツアーを行った。バンドはシン・リジィのバックナンバーのみを演奏し、新しい楽曲の制作は行わなかったが、ライノット不在の中「シン・リジィ」を名乗ることで批判を受けた。2000年、グループはライブアルバムOne NightOnlyをリリース。サイクスは、2009年にグループからの脱退を発表するまで、さまざまなラインナップの変更を通じてシン・リジィの先頭に立ち続けた。脱退時には「自分の音楽に戻る時が来たと感じている」と述べた。スコット・ゴーハムは後にサイクスの関与なしにシン・リジィを再結成した。

ホワイトスネイク

1983年、サイクスはイギリスのハードロックグループWhitesnakeへの参加を依頼された。フィル・ライノットからの同意と祝福を受け、サイクスはホワイトスネイク加入に同意。彼の最初の仕事は、1984年のアルバムSlide ItInの米国リリースのために新しいギターパートを録音することだった。その後、ホワイトスネイクは長い世界ツアーに乗り出し、1985年のロック・イン・リオフェスティバルを経てバンドの人気は最高潮に達していた。

サイクスはホワイトスネイクの次のアルバムの制作に深く関わり、ボーカリストのデイヴィッド・カバディルと9曲を共作した。2人は1985年の初めに南フランスで共同制作を始めた後、バンクーバーのリトルマウンテンサウンドスタジオでレコーディングを行った。しかし、アルバムのレコーディングの過程で、カバーディルと他のバンドメンバーとの関係は悪化し始めた。その結果、カバーディルはサイクスを含む他のすべてのメンバーを解雇してしまった。Whitesnakeのセルフタイトルアルバムである「Whitesnake 1987」は、最終的に1987年4月にリリースされ、これまでにバンドで最も商業的に成功したアルバムとなり、Billboard 200チャートで2位を記録、米国で800万枚以上を売り上げた。

ホワイトスネイクを去って以来、デイヴィッド・カバーディルとサイクスの関係は悪化したままである。サイクスは、カバーディルが彼の訴えをどのように受け止めたかについて依然「非常に苦い」とコメントしている。2017年、サイクスはカバーディルについて「奴と再び会話をすることについて、全く興味がない」と述べており、また「俺は『Whitesnake』の収録曲をライブでプレイできなかったことを後悔している。そしてファンもそれを悔やんでいるはずだ」と述べた。

ブルーマーダー

ホワイトスネイクから解任された後、ベーシストにトニー・フランクリンとドラマーにカーマイン・アピスを迎え、サイクスはブルーマーダーを結成。ボーカリストのレイ・ギランも当初このプロジェクトに参加したが、ゲフィン・レコードのA&Rエグゼクティブであるジョン・カロドナーからの励ましもあり、サイクスはリードボーカルを自身で務めることを決意。

セルフタイトルであるブルーマーダーのデビューアルバムは1989年4月にリリースされ、ビルボード200チャートで最高69位に達した。その後、バンドはアメリカと日本を横断するツアーに乗り出した。サイクスによると、バンドのデビューアルバムは推定50万枚を売り続けるが、BlueMurderの成功は予想を下回っていた。サイクスはゲフィン・レコードがバンドを適切にプロモーションしていないと感じ「彼らは俺とデイヴィッド・カバーディルを一緒に戻そうとしていた。俺たちをまた『勝利の方程式』にはめようとしてたんだ。 だが傷はあまりにも新鮮だった。だから俺は同じレーベルに残ることにしたんだ。でも後から考えると、別のレーベルに移った方がうまくいっただろう」

フランクリンとアピスは最終的にブルー・マーダーを去り、サイクスはバンドのセカンドアルバム「ナッシン・バット・トラブル」(1993)を新メンバーでリリースしたが、それは商業的には失敗に終った。サイクスはゲフィン・レコードに対し「ニューアルバムのために何のプロモーションもしなかった」と感じたという。1994年、BlueMurderはライブアルバムScreamingBlue Murder:Dedicated to Phil Lynottをリリース。その後、バンドはレーベルから脱退し、解散した。

バンドの解散以来、BlueMurderを再会させるためいくつかの試みがあった。2019年、カーマイン・アピスはグループが一緒にリハーサルをしたことを明らかにしたが、サイクスは『ジョン・サイクス&ブルーマーダー』という名前でツアーをしたいと考えており、アピスとしては負本位であったと語る。2020年、アピスはサイクスがブルーマーダーの再結成の可能性について言及したと述べたが、2021年1月時点で再結成には至っていない。

ソロキャリア

サイクスは1982年に彼の最初のソロシングル「プリーズ・ドント・リーブ・ミー」をリリースしました。これはリード・ボーカルとベースにフィル・ライノットをフューチャリンクした作品だった。トラックは後にタイガース・オブ・パンタンの楽曲として再パッケージされ、アルバムとしてリリースされた。またサイクスは、1995年に初のソロアルバム「アウト・オブ・マイ・ツリー」をリリースしている。

サイクスは1997年に2枚目のソロアルバム「ラブランド」をリリース。レコード会社は当初、7トラックのバラードを彼にリクエストしていたが、サイクスは最終的にプロジェクトを1枚の正式なアルバムとして完成させた。その同じ年、彼はアルバム「20th Century」をリリース。これは、ラブランドの柔らかなサウンドへのレスポンスとして制作された、よりヘヴィなサウンドのアルバムである。2000年に、サイクスは「ニュークリア・カウボーイ」リリース、2004年にはホワイトスネイク、シン・リジィ、ブルー・マーダーとの彼のソロキャリアでの楽曲を織り交ぜた日本でのライブアルバムバッドボーイライブをリリースした。

2011年、サイクスはドラマーのマイク・ポートノイ(ドリーム・シアター)と新しいバンドを企画していることを明らかにした。しかし、2012年にEddieTrunkは、このプロジェクトが解散したことを確認した。ベーシストのビリー・シーン(ミスター・ビッグ)もこのプロジェクトに参加していたが、最終的には個々のスケジュールが一致せず、サイクスは「我々は同じタイムテーブルに乗っていなかった」と語っている。サイクスは後にRichie Kotzen(元ミスター・ビッグ)に置き換えられ、グループはThe WineryDogsとなった。

2013年、サイクスは新しいソロアルバムに取り組んでいることを明らかにした。レコードのサンプルは2014年にリリースされ、サイクスは2017年のYoung GuitarMagazineのインタビューでアルバムについて言及した。2019年、サイクスはゴールデンロボットレコードとレコーディング契約を結び、同年に彼の次のアルバムをリリースすることを意図していると発表された。しかし、2019年11月、サイクスはゴールデンロボットレコードとのパートナーシップを終了したと発表しました。そして2021年1月現在、ニューアルバムについての情報更新はない。

Equipment / 使用機材

サイクスは彼のキャリアのほとんどを通して1978年のギブソン・レスポール・カスタムを使用してきた。ギターには、クロームハードウェア(Phil Lynottの提案で追加された)、Groverチューナー、真ちゅう製のナットが取り付けられています。リアのピックアップはギブソン・ハムバッカー・PAFからギブソン・ダーティフィンガーズに交換されている。2006年、ギブソンはサイクスのカスタムモデルに基づきサイクスのシグネチャーモデルレスポールを限定生産、すぐに完売した。サイクスが使用した他のギターには、ギブソン・レスポール・サンバースト・1959(彼のアルバムラブランドの表紙に掲載)、1961フェンダーストラトキャスター、EVHフランケンシュタイン、Ibanezジョー・サトリアーニモデルなどがある。

サイクスは主にEVH5150IIIアンプとキャビネットを使用している。彼は以前、ライブパフォーマンスにマーシャルJCM800を使用していた。ホワイトスネイクのセルフタイトルアルバム1987及びブルー・マーダーのファーストアルバムでは、サイクスは2台のメサブギーコロシアム・マークIIIプリアンプセクションと、6本の6L6パワー・チューブを使用。またサイクスは、.010〜.046のゲージのErnie Ball弦と、Dunlop 1.14mmTortexピックを使用している。

ディスコグラフィー

ディスコグラフィーについては下記ページを参照。

関連記事「John Sykes(ジョン・サイクス)のディスコグラフィまとめ

https://ziggy-stardust-77.com/2020/12/24/john-sykes-discography/

以上がWikipediaの翻訳です。このブログのサイクス関連記事は以下を参照。

関連記事「【My Guitar Heroes No.1】John Sykes / ジョン・サイクス

https://ziggy-stardust-77.com/2020/06/16/john-sykes/

備考

以前ヤフオクで必死で集めたヤングギターのジョン・サイクス関連記事についても機会があったらまとめたいと思う。

おわり

コメント

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